木野による作品解説

作品について語るということを私はこれまでしてこなかった。各作品のプログラムノーツにすべてのっており、それがかなり詳細であるからそれで十分だとも思う。しかし、ダンスを文章化する人は多くない現状を踏まえ、当事者が自分の言葉で語ることが必要ではないかと考えた。この文章は2016年12月に書いたもので、追って変更していくかもしれない。しかしながら出来る限り当時の状況にさかのぼって書きひとまずここに記録しておく。

Edge

横浜ソロデュオコンペティション2003で横浜市芸術文化振興財団賞を受賞。

 元々の作品プランでは舞台前面に洗面器に入れられた鳥が溺れていく様を舞台上面からプロジェクションし、その映像とともに踊るというもの(横浜ソロデュオコンペティション応募用紙より)。実際の作品では鳥は登場せず、天井から一滴一滴落ちる水の雫を受けながら、ダンサーが踊る中、その舞台空間(照明で4段階に変化)が狭まり、死へと追い詰められていく様を15分の作品としてまとめた。女性ダンサーのソロ作品ということもあり、舞踊の根元には祈りと”生贄”の意味があると捉えていた思想をストレートに出した作品。

 私は非常勤講師として私立、国立の中学高校で保健体育教員をしながら、自分の表現性と学校での授業内容とのギャップを感じていた。体育祭でのマスゲームや、創作ダンスなど幅ひろく手がけていたが、自分の思想とは全く異なるものと認識していた。職業としての割り切りもあり、スポーツクラブやカルチャーセンターでのストレッチやジムトレーニングの指導なども掛け持ちして生きることはできていたが、このままの生活をいつまでも続けていくことはできないだろうと感じていた。

 そんな折にこのコンペティションにビデオを送り応募したが、その際に送ったものは3分30秒しかない即興で踊ったものであった。当時創作というと振り付けの決まっているものを指していた時代であり、時間も極端に短い中、通過したのは奇跡的であり、この作品を最後に踊ることをやめるつもりで制作を始めた。

 当時、日本のダンスの多くがコンドルズや珍しいキノコ舞踊団の影響からユニークな、そしてユーモアの溢れる表現に進んでいたため、審査員たちにとても驚かれたことを覚えている。審査員の一人榎本は「舞踏の新しい波が来た」と思ったという。(実際には私が舞踏を学んだことはない)

 記憶力に問題があったことと、ビデオでの応募が即興だったこともあり、自身の即興性に着目した。繰り返し即興を行い続けていくと、必ず行う動きが出てくることを発見し、その動きを取り上げ、ストックするという方法を考案した。即興のまま、しかしほぼ無音にもかかわらず、同じ時間で終了するという”完成度の高い即興”を作り上げた。

 人はいつか死ぬ。舞踊とは最後に放つ一瞬の光のようなものである。

 私の人生はそれほど長くないが、これを踊ることができたのだからもう十分だと私は考えている。

 現代において生贄というと不思議な感じがするかもしれないが、元々舞踊の根底には宗教がある。古事記における天宇受売尊の踊りのように人は常に神に祈る時には踊りを献上していた。特にその役は女性芸能者が行うことが多く、トランス、神がかりなどの現象が見られる芸能も多く残されている。これらは日本国内に限らず世界中に見られる。神がいるかいないかという以前に舞踊には「そのような状態に入りやすい」仕掛けがあることは事実である。それゆえに大切にされ守られてきたのだろう。

 人は弱い生き物である。常に誰かよりも優位に立ちたいと思う傾向があり、それゆえに障がい者や年少者あるいは高齢者といった弱いものに対する差別は繰り返されてきた。さらに人間にはある種の暴力性、凶暴性が確実にある。これはローマ時代のコロッセオを見るまでもない。現代においても戦争は無くなることはない。生贄とはそのような人間の欲や暴力性を抑えるためにその弱い存在を目に見える形で現存させたものである。かつて舞踊家は奴隷や河原乞食という形で存在してきたが、これらは生産活動に従事しないで芸能に専念するためでもあるが、同時に、村のすべての悪いもの、弱いものを引き受ける存在であったがためでもある。

(中世においてキリスト教圏では舞踊が禁止されることが多くあったが、これらは舞踊による民衆の熱狂を避けようとした結果である。さらに古く旧約聖書においてはダビデの踊りに代表されるように必ずしも舞踊を退けるばかりではなかった)

現代において舞踊家はスターのように扱われ、経済的に恵まれるだけでなく、社会的地位も高い。しかしほんの数世紀前までは経済的にも社会身分の上でも最下層であった。そのようなものが全てを晒して「必死で生きようとする様」は必ず人の心を打つ。ただがむしゃらに動くことを見せるための装置・照明・きっかけを考え出し、それを振付とした。

 振付とは一般に動きを作り、それを踊るものだと考えられている。しかしながら動きの生まれる必然を作り出すことができればそれも振付であり、方向性を定めることも日本語にすれば振付にあたり、ゲームのようにルールを決めるだけでも振付と言いうることは、マースカニングハムのチャンスオペレーションなどを見ても明らかであると考えた。日本語の振付には英語で言う”Choreograph””Direction”両方が含まれており、さらに日本のようにマネージメント業が未分化の国においては”Produce”や”Management”も振付家の仕事といえよう。私自身は一人のダンサーでしかなく、また誰も振付れる人がいないから自分で振付ざるを得なかった。しかも振付るの概念すらひっくり返して、「せざるを得ない環境を作り出す」ことまで含んで作らねばならないほどダメなダンサーだった。結果としてそのことは振付家として評価されることにつながったわけで、私は常に、そしていつも「できないこと」「できなかったこと」と向かいあい続け、そこから作品を作り続けている。

 

 作品の終盤、両腕を上げて手のひらを開き、観客席を見ながら1周ゆっくりと自転をするシーンがある。逃げも隠れもしないと見つめる思いと、いつか殺してやると言う復讐心、怯える感情そのようなものに押しつぶされそうになる。私はいつも元々天井から落ちてくる水と、涙とぐちゃぐちゃになりながらこのシーンを迎える。

 

 そんなシリアスな作品だと私は捉えていたが、これを見た某振付家が「狭い部屋、水、女ってだけでエロいと思う」と言う感想をもたらし、私は自身が考えているテーマや方向性を超えるものは観客から生まれると言うことを知った。つまり、この作品は振付の概念を変えただけではなく、自身のテーマが伝わるとは限らない、むしろ伝わらないことに意味がある。この観点の差はモダンダンスとコンテンポラリーダンスの違いを表しており、それを体現した作品となった。

 

箱女

 私自身に含まれるエロさと言うものは考えて見たことがなかったが、”Edge”のご褒美として作品制作の機会をいただいた時に、同コンペティションで受賞した映像作家城戸晃一とともに作った作品が独特なエロさを含むものとなり一部に話題となった。

 当時私は中高大学の非常勤講師として務めるついでに作品制作を行っていた。稽古場を借りるお金がなかったので、教えに行った先で、始まる前や終わった後や深夜に忍び込んでいた。そんな状態だから誰にも頼ることができず、いつも一人だった。一人なりに動いたり、踊ったりしていたが、ある時寒さで動けなくなり、ロッカーの中に入って見たらちょっと暖かかく感じてそこにうずくまってしまった。それがこの作品の始まりである。日本では一般的なロッカーではあるが、その中に入ろうとする人はあまりいない。なお、大学時代の先輩に「ロッカーマニア」と言うタイトルでロッカーを用いたデュオ作品を作った人がいるが、10年近くのちに後輩がまさか、こんなにマニアックな作りをすることになるとは思わなかっただろう。

 テキストとして昔から好きだった安部公房の「箱男」をあげ、「見ることと見られること」をテーマに作品作りを始めた。観客は舞台を見るのが当たり前と考えている。「何か面白いことしてくれるんでしょ?」と思っている。そんなこと誰が決めたんだと私は言い返したかった。私があなたのことを見ているのかもしれない、その関係性は常にイーブンであり、私は常に観客席を見つめ続けている。

 エロいと言われるようになったのは意図的に箱女は箱を愛していると言う設定にしたためである。その関係性を客は覗き見する。覗き見している観客(そこにはいないことになっている)に対して実は私が見てるのよと言う箱女。後半扉が閉まり全く中の様子が見えなくなったのち、内蔵のヴィデオカメラの映像に切り替わる。盗撮のように青みがかった画にフェティッシュを感じる人もいた。しかしながらそのエロさはこの関係性を彩る演技の部分で、それゆえに観客は裏切られると言う構造を作ることとした。

 なお、この作品はギャラリーでのパフォーマンスバージョン、ヒグマ春男とのコラボレーションバージョン(「キノハコノコ」川崎市岡本太郎美術館)、城戸晃一とのコラボレーションバージョン(2種)と発展してきた。城戸バージョンにも箱の中の女も最後にいなくなるバージョンと最後まで残るバージョンの2種がある。(海外でもやればという声もあったが、海外特にヨーロッパにはあの大きさのロッカーがない。棺桶でというのはやはり気が咎められ海外公演は行ったことがない。さらに群舞化してはという提案を受けて考えたが、箱の移動と入手に困難さがありくじけている。なお、その数年後2008年にSutra(シディラルビシュルカウエイ)を見て、集団箱女の図を目の当たりにし衝撃を受けた)

 劇場を「ハコ」と呼ぶ。横浜ダンスコレクション20周年の記念誌に以下のように記載している。

 「振付が身体の状態を規定する運動を作るのならば、環境を制限し「せざるをえない」身体を作ることも振付といえるのではないか。縛られるからこそ表現は生まれる。Edgeも箱女もそのようにして生まれた。私は狭い所で踊る人と思われるらしく今回閉所空間のコンセプチュアルダンスについてというテーマを与えられた。狭い所で踊れば踊るほど私の踊りには青い空が見えるという。その逆説こそが私の特性ではないか。コンセプトはねらって作るものではなく、後から見えてきてしまうものだ。作家の意図を超えるものを作るために、私はそのときの私をそのまま出すだけである。劇場空間とはすべての人に等しく与えられた箱であり、その中で作家達は「表現」しようと格闘している。しかし観客は既に箱の中に巻き込まれていて、しかもそれぞれの価値観で見ていることを忘れがちだ。箱から出ても箱。

「ここもけっきょくは閉ざされた空間の一部であることに変わりはなさそうだ。」(安部公房「箱男」)

劇場も、世界も、また一つの箱にすぎない。」

 

 私たちはハコをかぶって生きており、自分の価値観(ハコ)の中でしか物事を判断できていない。多くの人は「ハコ」をかぶっていることにすら気がついていない。私が見ている世界とあなたが見ている世界とは違うかもしれない、そんな当たり前に気がつくために作品はある。

 

IchI

 私は踊りを踊るとき自分ではなく目に見えない何者かと踊るときがある。膝を押し出されたり、肩に触れられたりという接触のときもあるが、ほんの少しふっとかおるもの。その気配とは何であるのか。

 

 Place Prizeは特殊なコンペティションであったためその流れをまず説明する。

 

Place Prize2008の流れ

  • ビデオ審査(3分間で自分の表現したいものをビデオで訴える)

ヨーロッパのディレクター(およそ20名、彼らはのちにAerowaveのコアメンバーとなる)がそれらを見て点数をつける。応募総数は200を超えたと聞いていた。

  • インタビュー・面接

20分のプレゼンテーションと10分の質疑応答(ただし私は英語力のなさからか1時間近くに及んだ)審査員は3名、ここに進んだ団体がおよそ40団体

  • 作品制作

選ばれた20団体は5000ポンド(約100万円)と制作場所の提供を受け作品制作を行う

  • セミファイナル

5作品ずつ4日に分けて発表。

  • ファイナル

 

セミファイナルで審査員に選ばれた4作品と観客投票による1作品の合わせて5作品を連続上演し、勝者を決定する。(賞金25000ポンド)

 

 これまで自分の作品を作ることはあってもこれだけの予算を受けて作品制作をしたことがなかったため、かなりの戸惑いと苦労があった。また、イギリスに住んでいるとはいえ、学校に所属したこともなく、同僚も同コンペのライバルグループであったため、一人ですべてをアレンジすることになった。しかしながらその結果として多くの友人に出会うことができ、結果的にイギリスダンスらしくない作品に仕上がったと私は考えている。

 

 この作品はその後プレイスの春のフェスティバルSpring loaded及びダンストリエンナーレ青山で改訂上演された。私は作品を再演する際は「新しい発見があるから」再演すると考えている。箱女同様最後のシーンが大きく変わっているため、その変遷を下記に記す。

  1. ビデオでの解説

照明機材にmoving lightというものがあり、英語に慣れていなかった私は光の玉が動く様を予想していた(実際には固定されているが焦点や光の色を自由自在に変化させることができる機材。この機材には勤めていたRussell Maliphant companyにおいてリサーチを行っていたことで出会う)。そのように照明スタンドを手動により動かすと光の変化に合わせて影が動くことがわかり、その影と自分とのデュエットを作成したいとビデオ内で語る。ロンドンの街中の映像を用いて、私たちの生活には光が溢れている。でもその裏を私たちは忘れているとも話す。

 

2.インタビュー段階での解説

Place Prizeインタビューにおいて木野が提案したのは以下の3点である。

1日本らしい美しさをベースにした影とのデュエット

2そのため舞台は白で、写真のように布もしくは紙が撓んでおり、それに覆い被さられ最後は無くなってしまう

3動きの質感を追求したい。ふとした弱さ、柔らかさ、その繊細さが日本的だと思う

 

 この時点ではダンサーなども決まっておらず、一人で模型を用いて説明。陰翳礼讃などの話をし大幅に時間超過をした挙句、鏡に向かって「質感というのはこういうことです。イギリスのダンスは強いけれどこういうのはない」と実演して見せた。審査員の一人(Eddie Nixon)は「最後の最後で出てきた質感が面白いと思った。それがダンスだ」とのちに語ってくれた。

 PlaceではResolution!(若手のためのショーケース)、TouchWood1回(夏休み期間を利用した作品制作の機会)、Spring loaded(春のフェスティバル)といった実績を持っていたこともあり評価してもらえたのだと考えている。

 

 

   3.Place Prize2008

 実際の上演では予算があったこともあり、様々な人の協力を仰いだ。針生康との出会いはインターネットを介してのものだし、上野天志に至ってはフランスに住んでいるのを呼び寄せた。Jackie Shemesheはセレクション後公開された応募ビデオを見て面白そうと名乗りを上げてくれたし、音楽のAlies Sluiteも針生の紹介がなければ出会うことができなかった人材。寄せ集めではあるものの、そこから生まれたイメージを大切にしたいと考え、私はまとめていくことに専念した。

 私は光を操作する係となり、影の役を担当することにした。演出(振付家)の役割は実際の作品をコントロールする人という意味でとても近い。光と影の関係性を作り出すべく、照明実験を繰り返し行った。振付としては一つの動きのバリエーションで構成されており、極端に動きが少ない。そのため、光の位置や動かし方、装置の移動を決めていくのが主な作業となった。

 

 装置制作はそのほとんどをベルギー(針生の拠点)で行った。彼女はフリーランス舞台美術家であるがイギリス国内で唯一のダンス(バレエ)専門の舞台美術家でもあった。イギリス国内で博士課程に通っていたこともあり、半分はイギリスの仕事をしているが夫の仕事の関係もあり居住はベルギーだという。そのため実際にベルギーに行き、装置を作り共に過ごした。ベルギーはダンス環境としてはとても恵まれており、そのような土地によっての制度やシステムの違いを目の当たりにしたきっかけとなった。針生はダンサーとしての木野を評価し、「あなたが踊らなきゃダメだ」と「踊って」とリクエストしてくれた最初の人であり、彼女の協力なくしてはこの作品は出来上がらなかった。この装置を生み出すまでの課程は針生が自身の博士論文にまとめている。日本らしさを考え生まれたセットは茶室を展開したものであり、牢獄のようにも、茶室のようにも、見える黒いセットであった。その中に薄紅色の椿が咲いているのが私のイメージだという。実際その花はこの作品では使えなかったが、のちに「かめりあ」というタイトルで作品化されることとなる。

 

4.Spring Loaded での再演1

 

  ファイナルに残ることはできなかったものの、作品の評価が非常に高かったことを受けてThe Placeの春のフェスティバルで改訂再演を行うこととする。上野が参加できなかったため、松本武士(当時ロンドン在住)が参加することになり、変更を試みる。特に中盤部分で装置を移動させるという案を試すものの、キャスターなどが付いていないことから難しく、苦戦する。

 

5.ダンストリエンナーレ青山での再演2

 Spring Loadedでの反省を生かし、元の形に近づけつつ、結末を変える案を提案する。最後に装置を動かすのではなく、倒していくことで崩壊させ「狂う」さまを表出。さらに残った木野もまた巨大に広がる己の陰に飲み込まれていくという展開へとまとめる。つまり元々は影役の木野が実体の上野に取り付いて殺してしまう怪談話であったのが、単純に殺すだけではなく、それは自我を崩壊させたのであり、なおかつその影役の木野もまた得体の知れない巨大な存在に飲み込まれ消えてしまう。そして始まりの闇に戻るという展開を持つ。私はこの作品を踊るたびに平家物語の冒頭を思い出す。そしてすべては無に帰すると感じる。タイトルのIchIは位置、数字の1と同時に私と私の間に何かが挟まっている状態を表す。私とは何者か、そして私を動かすものは何者か、それは私自身であり、何人も切り離すことができない。それを切り離そうとしても滅してしまうのみで、そのような存在を忘れてはいけないと感じている。

 

 この長いクリエーションを経て、私は作品を練り上げていくことの大切さを知る。正しくは一回上演して終わりではなく、そこから作り続けることが重要ではないだろうか。ヨーロッパでのカンパニーダンサー活動において、私は何度となく同じ作品を上演し続けていた。その度に発見があり続けたが、多くのダンサーは「飽きてきた」という。常に発見し続けること、それに耐えられうるドラマツルグがあるかどうか。しかしながら、日本国内の現状において作品は一度公演して終わりのことが多く、練り直したり再演ということは難しい。そのことで作品の成長を妨げているのではないだろうか。

 

札幌市中央区南六条西26丁目・かめりあ

 日本へ帰国しこれから私に何ができるかと考えた。

 まず自分のことを自分で話してみようということから自己紹介のダンスを作成した。イギリス時代に作成した作品”No title or angel’s bone””The Three cornered world”に含まれているBachのゴルドベルクバリエーションのアリアを用い、自分で語り、踊るという手法を編み出した。これは自身が高校時代に演劇を経験しており、自己紹介をする上でそのバックグラウンドにも触れようとしたためである。

 さらに2010年、7年も前の受賞者公演をする機会を得たことから、7年とはどういうことかを考え”かめりあ”を制作する。自身の代表作”Edge”をもともと即興であったものを再現し、7つ年をとった身体で見せるとどうなるかを見た。二作品目は横浜市の65歳以上の高齢者と小学生からなるリコーダーグループによる”こどもたちのうまれるとき”(以下”こども”と略す)、三作品目はこの7年の間にすっかり歳をとり、生活が危うくなったことで施設に入った祖母との対話から生まれた”かめりあ”。”こども”で出てきた電車や歌は”かめりあ”で使用されているほか、最後のシーンは冒頭に上演した”Edge”への回帰を示すなど各作品は連動している。”かめりあ”のサブタイトルとして「主なくとも庭の椿は咲き続ける。ただあるがままに」と記しており、生まれて死んで、そしてまた生まれかえる巡り続けるイメージがすでに現れている。

 

 ダンスは若い人がするものというイメージが未だ残っている。しかしそれぞれの年齢におけるそれぞれの作品というものがあるはずである。何人かの批評家になぜ”コミュニティダンス”を見なきゃいけないんだと”こども”を指して言われた。それは大きな間違いで、世代間を超えたつながりを作り出していくことこそが私の日本で行うべきダンスであり、”こども”がなくては“かめりあ”は生まれないし成り立たないと返答した。私とは何者かから私の元となった家族へ、そして私の周りの人へ意識が広がった作品でもある。

 

Amanogawaプロジェクト

 本来2010年から11年度で作成するはずだった作品”銀河鉄道の夜”(原作宮沢賢治)を私の体調上の理由でキャンセルし、しかしながらその構想の一部だけでも映像として残そうとワークショッププログラムを立ち上げた。

ダンスとは哲学である。

 私はどうやって行きていくかということに答えはない。しかしそれをとい、考えるために身体を使用する。人は身体から離れることはできない。身体の重さ、温かさ(あるいは冷たさ)、質感、そういうものをちゃんと感じるためのワークとそれらを通じて今考えていることを話す機会を作る。それらを劇場作品としてまとめようと考えていたが(”銀河鉄道”でいうとサザンクロスのシーンに相当する)その言葉があまりにも重く、ドキュメンタリーのように映像化した。さらに映像では切られてしまう言葉たちを全てテキスト化し保存することにした。私たちの今の生活の全ては星のようにきらめいている。宮沢賢治の言葉に惹かれ、「農民芸術概論綱要」を元に普通に生きる普通の人々の言葉をそのまま拾おうとした。

 元々は各地域における思考の違いを見るべく考えていたが、経済力の問題もあり、神奈川(新百合ヶ丘)と札幌の2箇所でしかできていない。今でも開催地を募集中である。

 

 その後2012年F/Tでロメオカステルッチ「神曲3部作」を見て衝撃を受ける。規模は違うけれども、こういうことがしたかったんだと私は思った。しかし、私はそこで話し合い、各自の生活に合わせて考えて行くというプロセスを大切にしたいと考えた。作品としての強度ではなく。”からたち”シリーズでもそうだが、あくまで個人の話であり、一般的に普遍性を求める中、個々人の生き方にフォーカスを当てている点が異なっている。

 Amanogawaプロジェクトは最終的に映像作品、テキストすべて公開している。これらはこのワークショップ内容をもとに広がっていくことを予期してのことである。ワークショップ内容はこれまで木野が展開してきた「ゆるやかにのびやかなからだをつくる時間」やコミュニティダンスワークの中でよく使われるものであるが、ここで何を話すかが重要であり、毎回異なり、同じメンバーでも変わっていくだろうからこそ公開することとした。

からたち・からたちから

 ある日、第7劇場の鳴海さんよりフェスティバルに参加しないか?と声をかけていただく。北池袋のSentioという小劇場、大山のサブテレニアンで行うSentival!!である。鳴海さんの紹介で大塚にある巣鴨教会に出会い、そこで作品作りを行うことになった。教会はヨーロッパ時代より数多く見ていて、常に町の中心にあると感じてきた。ヨーロッパの町は川と教会と劇場からできている。劇場がないところにも教会はある。

 実は教会のミサ(礼拝)は演劇(パフォーマンス)としても非常によく作られており、それをうまく起こすための工夫が教会のふしぶしに残されている。高い天井などの建や音楽、暗い照明から最後に差し込んでくる明るい光まで。その構造を利用して作品作りをしようと考えた。巣鴨教会は小さなプロテスタントの教会である。ヨーロッパのような豪華な建築ではないし、パイプオルガンもない。しかし、かつては幼稚園を併設しており、その時のアルバムなども調査の中で出てきた。それらの資料を元に、自分の生い立ちについて語る告解のシーン(前半は”北海道札幌市”に似ている)が前半、後半は巣鴨教会のアルバムを介しながら様々の人の人生へとつながっていく様を描いた”Amanogawa”シーンとなる。”からたち”ではキリスト教が伝播していく様と人の命が伝わっていく様をロウソクの火が手渡しで広がっていくことによって表現した。私の命もまた誰かによって広げられていくという希望的観測も込めて。新百合ヶ丘で参加してくれたみなさんが再度参加してくださり、参加してくださった。また途中からは観客も舞台上に上がり一緒に火を渡して行く。終演時にはロウソクの火でできた銀河の星を見ることができる。また、牧師さんが元々はオルガン奏者ということで、カーテンコールで簡単なお話と演奏を披露してくれた(当然私は踊った)。

 ”からたち”は大変評判も良かったが、制作期間が短期間過ぎたこともあり、「間に合わせた」感が強く、物足りなく感じていた。と、いうのも巣鴨教会のリサーチが終わっていなかったためである。また、牧師さんが音楽家ということもあり、柔軟に対応してくださったことも大きい。聖餐台に下着姿で横たわるのをダビデ王の例を挙げて笑って許してくださる人はなかなかいない。そこでこれを機会にキリスト教について学ぶことにする。聖書についての読解を続けながら(巣鴨教会は長老派と呼ばれる聖書の読解を通じて学んでいく学派)聖書の文言に対するカトリックとプロテスタント、ロシア正教会などの差異を学び、巣鴨教会の歴史を学び、巣鴨教会が合唱団の巣となっていることを知り、その合唱団のなかに「体育会系」かつ少人数の団体があることを知り、その人たちと仲良くなり、その楽曲を使いかつその人たちに参加してもらうことを決めるまで。1年以上かかってしまった。”からたちから”はそんな中から生まれたリベンジとも言える作品である。

 ”からたちから”は”からたち”の逆の構造を有している。光が広がっていくのではなく光はなくなっていく。私の大切な人たちは一人また一人と消えていく。死にゆく人、精神を病む人、そういう人をたくさん見てきた。おそらく一般的な人よりもその比率は高い。それはダンサーとして人を蹴落としながら生きて生きたせいか、そういう人を引き寄せるのか、それを見ながらわたしは作品を作り続けてきた。私にとってダンスとは楽しいことばかりではなく、むしろその悲しみを受け入れるため、浄化するために必要な儀式であり、祈りであったという事実。作品中にもコレヒトの言葉、ヨハネによる福音書などを引用している。

 巣鴨教会で出会った合唱団コールシャンティ(指揮:野本明裕)は歌うだけでなく”からたち”で参加してくれた新百合ヶ丘のAmanogawaチームに準じた動きまでマスターし、この作品で重要な役割を果たしてくれた。ダンサーではない普通の身体だからこそできることもある。一人一人の人が丁寧にろうそくの火を扱うだけで意味を持つ。私はこの作品をとても重視しており、自分の作品に人に関わってもらうというのはこういうことだと思うことになった。

 

 

追記:この作品がきっかけで新大塚地域に出没するようになり、いろんな人の紹介もあって社会人大学院に進学することになり(徒歩15分の近さ)、その後も都内の稽古場として度々お借りするようになる。2016年クリスマスの礼拝でも教会の皆さんにお会いし、懐かしい時を過ごす。この日の聖書の朗読箇所はクリスマス礼拝にしては珍しくヨハネによる福音書第1章1-18。”からたちから”を作らざるを得なかった当時の心境を思い出し、求道者のまま洗礼を受けないままで現在に到るまで親しく過ごさせていただいている人々の優しさに感謝している。

しづ・静(黒バージョン)・静(白バージョン)

 帰国してすぐの頃(2009年)静御前の舞を元に踊って欲しいという依頼を受けた。由比ヶ浜に近いギャラリーの企画で、箏奏者八木美知依と映像作家Michiとのコラボレーションであり、その場は即興的なパフォーマンス(八木は既に作ってある曲を元に構成)であった。木野はその後も静御前の生涯へのリサーチを続け、KAATにて”しづ”(2012、20分作品)を発表、その後”静”としてBankARTの3階の倉庫空間で公演を行う。その後BankART企画により2階の白い空間での公演を行ったため、”しづ””黒静””白静”の3バージョンが展開されることとなる。

その違いは以下の通り。

1.”しづ”

 20分作品。劇場で行う公演だったこともあり、照明効果を利用して、日本的な”幽玄”の世界を表そうとした。

 

2.黒静

 60分作品。開場時間中より赤いジャンバーを着た木野は8の字を描くように倉庫内を歩いたり、走ったりしている。作品に入る前に窓際に靴と赤いジャンバーを脱ぎ、”静”へと変化していく。

 ベースとして”しづ”を利用しているが、白拍子舞の調査をもとに、動きを構成、シーンとしては白い部屋で待つ女、春日若宮おん祭りに取材した巫女舞、気を失い目覚める、水晶の夢(八木オリジナル曲)、乱拍子、白蛇となり窓から飛び出ようとするが怨念に引き戻され、それに巻きつかれてしまう、八木が静かに歩み寄り木野を鎮め眠りにつかせるという流れになっている。

 演奏者(少なくとも観客はそのように捉えるよう黒い衣装)の八木が、舞台上に上がり木野に触れ、立場が入れ替わることで2人で一つの役”静”を体現していたことを示す。木野の演じているのが静”の霊性や精神性だとすると、八木はその実体であり、美しく年を重ね静かに思い続けてきた女性としての静そのものを演じている。このドラマツルグは”IchI”の時を参照している。

 黒静の上演は2月、その日は記録的な大雪でもあった。そのため観客は限られていたが、その風の音(後半窓がバタンバタンと大きな音を立てて、開閉する)、外から入ってくる光(雪のせいで少し明るい)と合わせ、舞台効果となり美しい空間となった。

 ”しづ”では劇場であったが、倉庫を選んだのは現代性の象徴と、殺伐とした心象心理がこの作品に会うのではないかと感じたためである。当然広く、しかし広いがゆえに見える孤独感が静らしいと感じている。

 白拍子舞は現存していない。鶴岡八幡宮で奉納される静御前の舞も日本舞踊により創作されたもので中世期の芸能の形を残していない。そのため、資料をあたり「今様の書」や脇田晴子、沖本幸子らの論文、春日若宮おん祭りにおける巫女舞、幸若舞(福岡県大江)、綾子舞(新潟県刈崎)などを参考に動きをセレクト、それらをアレンジして現代的なダンスに仕上げている。拍子というからにはもっとノリがあるものだったのではないだろうか。また愛知県北設楽郡の花祭のように中世期の祭りや芸能の多くは躍動感の溢れるものであったはずだと考えた。白拍子舞は残っていないが、乱拍子は能の中で白拍子が舞う舞の一部に含まれている。丁度観世能楽堂で行われた勉強会で、「道成寺」における乱拍子について、「道成寺」と「鐘巻」の差異、秘曲とされる「檜垣」における乱拍子について触れられていたことを踏まえ、能の抑えた緊張を高めていくタイプの拍子ではない、実際に乱れるような乱拍子を想像、そこからトランスしていくような激しい舞を作り上げた。

 またこれらの調査より、能「道成寺」のストーリーを取り入れ、まちこがれながらだんだんと気がふれていき、蛇となって駆け抜けていくシーンと怨念に縛られ動けなくなっていくシーンを生み出した。作品全体を通しても静から動へと変化していく構成とし、「序・破・急」が見えるようにしている。

 2016年沖本幸子は「乱舞の中世」を発刊、その中で乱拍子と翁の舞について詳しく触れている。静で私が舞踊家として感じ直感的に踊りとしていたものを文章化してくださっていて、とても嬉しく思う。また、彼女の説を踏まえると、やはり日本の民俗芸能には「からだ」が息づいていて、呼吸(唄い)と足踏みによって自身の中にある霊、神を感じるところが残っている。能はそれを押さえ込みながら芸術性を高めていき、逆に多くの芸能はその身体的な快楽の部分に寄った形となり、まったく異なるものとなっているが、そもそもは一つであったのではないか。その原型が白拍子や乱拍子であり、翁の三番叟ではないか。

 

 舞踊家として舞踊の根源を求めようとした時に、中世にさかのぼることが必要であると考え、今後も民俗芸能の調査は行っていきたい。また、おそらくさらなる過去へと想像を広げていくことが必要ではないかとも感じている。

 

3.白静

 黒静を上演したBankARTのCafe live企画で再演の機会を得た。公演が横浜トリエンナーレ開催期間中ということもあり、会場が2階の白い空間へと変化し、その空間を用いての公開滞在制作(トリエンナーレを見に来た観客が自由に立ち寄る状態)により、幾つかの変更を加えた。

 シーンとしては白い部屋で待つ女、春日若宮おん祭りに取材した巫女舞、気を失い目覚める、既に義経はこの世にいないということに気がつく、水晶の夢(八木オリジナル曲)、乱拍子、白蛇となり窓から飛び出ていく、静の実体とも言える八木がそれを追うようにして去っていくという流れになっている。八木が機材を離れても音楽は演奏が続き(ループを利用)その余韻が音楽という形で残る。

 単純に部屋の色が異なるというだけではなく、怨念に取り憑かれて消え果てる黒に対し、その思いが浄化するという意味で白い、美しい静御前の舞となった。

 ”銀河鉄道“以降基本的に一人で全てを賄う形態にし、私は女性ソロダンサーのドラマツルグを考察していた。そんな中、「待ち続ける女」としての静と「巫女」としての静その両方がおそらく木野が作りうる唯一の作品であろうと考えられた。

 身体能力的には優れたダンサーではないが、なぜ踊り続けることができたのだろうと考えると、多くの人のサポートゆえである。私が踊り続けられるようにと道を作り続けてくれた人に祈りを返したい。舞踊の本質には祈ることがあり、豊穣や雨乞いに元があると言われる。(静御前にも99人の巫女が祈ってダメだったところ静が待ったところ雨が降ったという伝説がある)静では(義経を)信じて待ち続ける女の側面が強く現れていたけれども、本来白拍子は様々な自然変動や政治情勢の変化に敏感に反応し、今様に折り込んで行ったと考えられる。その予見の能力ゆえに崇められたはずである。(一方でその能力が低下したり、外れたりということで遊女に身を落としていくという流れが感じられる)単純に美しい女性でよければ男装をする必要もなかったはずで、そこには潔斎に似て禁欲的な聖なる思想が見受けられる。

 白静を作っている頃、大学院に進学し、担当教官が歴史社会学(体育)であったこともあり、本を読むということに慣れていく。河原乞食と呼ばれた芸能者の歴史はどうして起きたのか。現代ではダンサーは憧れの職業のように思われがちだが(実際の労働環境はともかくとして)、様々な禁止令のあった歴史を日本、ヨーロッパ双方で見直して行った。当然静の一生も厳しいものであったはずである。彼女の一生を支えたのは義経への愛であっただろう。そして既に「この世にいない」ということを感じ、気が付きつつも、いると信じ続ける心だけで生き続けたのではないだろうか。自死ではなく、生き延びた彼女の伝説(しかしながら、実際にどこで亡くなったのかは諸説あり、日本全国に静の墓がある)を思いながら、作品の最後を変更させた。

 この作品を踊っている時、実際に気を失っていて目覚めるシーンで、私は頬に水を受けた。雨のように一滴落ちる水は命の水であり、涙であった。それは私の思い過ごしかわからないが、その実感、リアルさを持つことが表現において大切であると私は考えている。頬に水を受けて目がさめる。そして私はこの世に既にいないのだということに気がつく。振り付け上は動きにもならない(受けるだけなので)が、この作品において最も大切なシーンである。 

 この作品を作って私は目に見えないものを踊ることを意識した。これまでも私と私を動かす何者か(”IchI”)などある種の霊性を感じて動いてきたし、即興性を取り入れているのも、その際に起こるインスピレーションの中にこそ真実があると考えているからであり、それを私はおい続けている。しかしながら、世間一般でいうダンスイメージではやはり「わかる」ことや「すごい」ことが必要であり、何のためのダンスなのだろうか、ということを考え始めるようになる。それが修士論文へと繋がり、また民俗芸能のリサーチへとつながっている。

 

 

 

ダンスハ體育ナリ

 筑波大学社会人大学院に進学し、修士論文を書きながら、ふと目の前にある自分の母校(お茶の水女子大)の歴史を考えていた。なぜダンスは体育なのだろうか、そもそも私がやっていることは何だろうか。素朴な疑問を作品にするべく、しかし踊るだけではなくレクチャーパフォーマンスという形態にしてみることにした。つまりは勝手に修士実技である。

 そもそもは大野一雄が体育教員だったというところから何か作ってくれないかという制作依頼であった。大野一雄は体育の中でダンスを教え、ダンスの部活動も見ていたらしく、写真も残っているが、「ダンスを教えることはできなかった」と話していたという。彼の時代を辿りながら、自分の歴史を重ね合わす事でそもそも学校教育においてなぜ女子の体育がダンスなのかについて疑問を投げかけた。(私自身も中学高校の保健体育教員として働いていたし、修士はスポーツ・プロモーションコースで研究していた)

 母校であり、女子高等師範学校であったお茶の水女子大学の資料を見直しながら体操の歴史を追っていく事でダンス教育の発生も明らかになっていった。また体育の枠にある事でより多くの子供たちがダンスに触れることができる現状があり、それが一つの知恵でもあった。一方で一般体操(軽体操)でも音楽を使うようになり、徐々にダンス化していく傾向があり、さらにダンスはダンスでも揃って踊ることに美学を感じる傾向があり、「創作ダンス」は取り入れにくく思われていることも見えてきた。テレビやメディアに出るダンスへの憧れは強い。一方で私が行っているダンスとはどうも異なっているという現実。その違和感はどこからくるものだろうかと戦っていたし、今もそれが続いている。

 ダンサーであり、振付家として活動しているが、新しいダンスを作る作業というのは今あるダンスに対する批評的視点が不可欠であり、私はおそらく外に一歩抜けていた。その離れた目でみる作業を私は面白いと思うし、それを元に作品を通じて論じていくことが私の仕事だと思う。動きや振りの複雑さではない霊性の力を私は信じているし、おそらくドラマツルグや昔から伝わる物語はそれを見出しやすくする一つの方法だと私は思う。その力を感じやすくするための努力を私たちは続けていくのであって、身体トレーニングとは限らない。本を読み、ものを考え、感じること。少し早く現代を正確に切り取り、そしてカナリアのように指摘すること。それがダンサーの仕事であると私は考える。それはかつて巫女や白拍子が行ってきたことなのかもしれない。 

 今作品で”ダンスハ體育ナリ”と現状を話しつつ、体操のダンス化、ダンスの体操化を指摘し、私たちは「見えないものを見るために踊ってきたのではないか」と指摘する。「わからないものをわかるため」ではなく「わからないを楽しむために」踊るのではないか。一緒に考えるきっかけであり、私の考えを押し出すというものではない。「わかる」「すごい」ダンスではないけれど、今の時代の表現とはそういうものではないかと思う。

 コンクールやコンペティションで勝敗を決めるのではなく、そのままに全てを受け入れていく土壌が芸術にはあったはずだ。カイヨワのいう競争の遊びに代表されるスポーツと模倣と目眩の遊びに含まれるダンスの違いである。フィギュアスケート、新体操、シンクロナイズドスイミングと芸術スポーツと言われる競技種目が増えているが、スポーツはスポーツで、2回転よりは3回転、4回転、揃っているいないで点数に明確に差が現れる。競技であることにより、技術は進歩していく。それはそれで理解できるが、私はそこにはあまり興味を持てなかった。

 私は上手く踊ることができるダンサーではなかった。少なくとも大学時代にはどちらかというと上手くはない方で、変わった子と思われていた。それゆえかもしれないが、強者の美ではなく、弱いものに心惹かれる。できなかった自分を認め、できないからこそ生まれるものに目を向ける。大学を卒業して20年近く経つが、同期の林さん(現在は子育てをしながらヨガやバレエを教えている)の協力のもと、私が受けて来た教育とはなんだったのかということを見直す作業でもあった。アカデミックな方法論や技術の指導は質とレベルの向上を促す。その中にいてできなかったことによりコンプレックスを多く抱えて私は生きてきた。そしてそこから逸脱していたからこそ、私は疑問を持ち続け、それゆえに作品を作り続けてきた。ダンスとは何か、ダンス教育とは何か。一見コンプレックスはネガティブな印象だが、それゆえにできたこともある(それゆえにできなかったことも多い)。

 本質的に人にものを教えるということはできないのではないかと感じる。それぞれの人が学び取るもので、自分で構築したものでない限り得られるものはない。日本の芸能の型を用いた伝承はそれゆえの工夫であり、多くの唄も楽譜がない。間合いも口づてで伝えられる。しかも多くが「語られない」。その場で伝わるもの、伝わってしまうものを重視していたということである。

 教材研究など「子供達がいかに楽しく」参加できるようになるかあるいは「必要な技術を身につけれるか」を工夫していくのが学校教員だと思われている。しかし教育とは子供たちが作りやすい環境を作るということであり、それ以上でもそれ以下でもないのではないか。私はこう踊るよと私の経験に即して話すことはできるが、それをどう扱うかは子供達次第である。大学教育に携わるようになり、より一層人は自分の思っている「正しい」や「良い」を教えて欲しいと思っていると感じる。しかし絶対的な正しいなどあるはずがない。人の数だけ「正しい」や「良い」があってよく、既成の「正しい」や「良い」を壊していくのが芸術の価値だとすれば、若い世代から新しい発想が出てくるように促しながら、私は私で勝手に掘り続けていくべきなのではないか。「ダンスを教えることができなかった」という大野氏の言葉はもしかしたら「ダンスは教えるものではない」ということではないか。フリースタイルを促し、稽古でも自身のこと、母親のこと話しが止まらなくなる大野氏を思う。

 

 

 追記:教育現場に入り、現在の大学生と自分の時代との違いに驚く。鳥取大学で言えばこの3、4年で大きく学生の質が変わったという(これはあくまで教員の言葉でしかないが)。面白いことをやってやろうというのではなく、できるだけ「しない」。学生たちは「正しい」何かがあると思っており、その知識を求めているが、それを疑うことをしない。文系地域学部教員の中にはその現状に疑問を持つ人も多い。歴史は勝者によって作られる。学校の教科書も国によって時代によって様々に変化している。その変化を見極めなければならない。現代の難しさは「正しい一つの答えはない」ことと私は捉えている。それは近代社会の成長神話の崩壊という時代の流れにも合致する。地域学部という多様性を重視した地方の小さな大学が使命感を持って言うべき言葉であろう。少し離れて外から歴史の変換点を見極め、警告をならす行為はカナリアににて芸術家の仕事にとても近い。私がここで学ぶことは多く、今も日々学び続けている。